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名古屋地方裁判所 昭和54年(ワ)1171号 判決 1984年4月25日

原告

宮本重信

右訴訟代理人

加藤良夫

鈴村昌人

被告

医療人社団同潤会

右代表者理事

杉田慎一郎

右訴訟代理人

饗庭忠男

被告

杉田慎一郎

右被告両名訴訟代理人

太田博之

立岡亘

後藤昭樹

主文

一  被告らは原告に対し、各自金三三〇万円及びこれに対する昭和五四年六月一四日から完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告のその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用はこれを一〇分し、その一を被告らの負担とし、その余は原告の負担とする。

四  この判決は第一項にかぎり仮に執行することができる。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告らは原告に対し、各自金三三二六万六三〇〇円及びこれに対する昭和五四年六月一四日から完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告らの負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告の請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  被告医療法人社団同潤会(以下「被告同潤会」という。)は、眼科杉田病院(以下「被告病院」という。)を経営しており、被告杉田慎一郎(以下「被告杉田医師」という。)は、被告同潤会の理事であり、被告病院の院長として医療行為に従事しているものである。

2  右眼失明事故の発生とこれに至る経緯

(一) 原告は、左眼が幼児期からほとんど視力のない弱視であつたが、昭和五一年九月初めころ、右眼の視力が落ちてきたので奈良県立医科大学(以下「奈良医大」という。)附属病院眼科松田医師の診察を受けた。原告は同医師から糖尿病性網膜症の診断を受け、硝子体を切除する手術があるが、糖尿病性網膜症に右手術はできない旨言われた。

(二) そこで、原告は同月二〇日被告病院を訪れた。被告杉田医師は、原告を検査のうえ診察したところ、右眼の視力は0.08であり、病名は糖尿病性網膜症であるとの診断を下し、原告に対し、「網膜に水がたまつている。網膜の水をとつたらもつと目が見えるようになる。心配はいらん。ちやんとしますから入院しなさい。」と述べた。原告は被告杉田医師の指示に従つて、同月二四日被告病院に入院した。

(三) 被告杉田医師は、同月三〇日午後七時ころ原告の右疾患に対し、全身麻酔のうえ硝子体手術を施行したが、右手術に際し、同医師は原告に対し、いかなる手術をするのか、手術の名称、内容、手術に伴う危険の程度につき一切説明をしなかつた。

(四) 原告は、同年一〇月六日被告病院において目の包帯がとられたが、視力はなく何も見えなかつた。ところが、被告杉田医師は「剥離を起こさないように思いきつて削つたが、血が出てしまつた。糖尿はこれだから困る。」「心配いりません。見えるようにしますから。」などと述べ、その後も原告に対する診療を二年余りにわたり継続したが、視力は遂に回復せず、現在失明状態にある。

3  硝子体手術の危険性

(一) 硝子体手術は、硝子体切除刀にて、先ず透明硝子体を切除し、次いで線維血管膜を剥離、切除して、網膜に対する牽引を除去し、網膜の復位を図ることを目的とする手術方法であるが、右手術を実施するには、最善の手術器具、設備、高度な医療技術が必要とされる。

(二) そして、右手術が増殖性網膜症を対象とするときは、新生血管からの出血や、増殖物の剥離を行う際に発生する網膜裂孔形成・網膜剥離等の術中合併症を発生させる可能性を有している。特に、末期糖尿病性網膜症の患者の場合、新生血管が脆弱化しており、少しの刺激でもすぐ出血し易く、術中出血はいわば避けられないものとなつている。また、術後の合併症としては、同じく出血、網膜剥離、緑内障が多く、これらの術中、術後の合併症が発生した場合には、視力の低下、失明に至るのであるから、危険な手術であるといえる。

(三) 被告杉田医師は、昭和四九年四月から硝子体手術を始め、原告は三九例目にあたり、同被告の報告によれば、昭和四九年から同五三年までの被告病院での硝子体手術の成績は、良好(基準のとり方は定かではない。)44.1パーセント、不変15.8パーセント、悪化四〇パーセントである。また、日大医学部松井瑞夫教授は、昭和四九年秋から硝子体手術を始め、同年から同五三年までの硝子体手術の成功率は、増殖性変化と牽引網膜剥離の患者を対象とした場合三三パーセントであり、その失敗の多くは術中の眼内出血が原因となつている。そのため硝子体手術は、この出血対策に多大の努力が重ねられ、現在では手術器械・手術手技等の改良から、術中での出血予防と発生した出血に対する処置は急速に進歩してきたが、昭和五一年九月当時の段階では、硝子体手術は、未だ術中での眼内出血により失明をもたらす危険性の高い手術であつた。

4  被告らの責任

(一) 説明義務

(1) 医師の治療、とりわけ肉体への侵襲行為には、原則として患者の承諾を必要とする。そして医師が患者から有効な承諾を得るためには、必要な事項を適正に説明しなければならない。

(2) 前記のとおり、硝子体手術は、術中、術後の合併症により失明する危険性の高い手術であり、また成功したとしても視力回復は一時的なものであり根治を意味せず、いずれは失明を免れないものである。また、昭和五一年九月当時は、未だ硝子体手術が開始されて間がなく、術中の出血に対する対策など未熟な段階で、極めて失明の危険性の高い段階にあつた。そのため医師としては、硝子体手術を施行するに際し、患者に対して、その内容、成功の意義とりわけ手術に伴う失明の危険性について十分説明したうえで、患者の同意を得る必要があつた。

(3) 特に本件では、原告の左眼はすでに視力がなく、原告は右眼のみで生活を支えており、もし右眼を失えば全盲となるのであるから、このような患者の場合には、より一層慎重に説明をする義務がある。

(二) 説明義務違反

被告杉田医師は原告に対し、実施する硝子体手術の内容について、単に網膜の水を取る手術である旨全く虚偽の説明を行い、かつ、失明の危険性については一切の説明をせず、右手術を施行した。

(三) 因果関係

(1) 原告は、奈良医大附属病院において、松田医師から硝子体手術のことを聞いていたので、被告病院を訪れた際、右手術の内容、方法につき概略の知識はあり、糖尿病に罹患しているものにとつて極めて危険な手術であるとの認識はもつていたが、原告にとつて右手術が唯一最後の治療方法であるとの認識は全くもつていなかつた。

(2) 原告が、もし被告杉田医師から手術前に施行しようとする本件手術の内容、危険性について説明を受けておれば、右手術を拒否することは明らかであり、右手術により直ちに失明することはなかつた。したがつて、被告杉田医師は右説明義務違反により、原告を右眼失明に至らせたものである。

(四) 被告同潤会の債務不履行責任

(1) 被告同潤会は、昭和五一年九月二〇日原告との間において、善良なる管理者の注意義務をもつて原告の右眼疾患の治療にあたることを内容とする準委任契約を締結した。

(2) ところが、被告同潤会の医師である被告杉田医師は、前記のとおり、説明義務に違反して不完全な履行をなし、それにより原告の右眼を失明するに至らせたのであるから、被告同潤会は債務不履行として、原告の被つた後記損害を賠償する責任がある。

(五) 被告杉田医師の不法行為責任

被告杉田医師は、前記説明義務違反を内容とする過失ある診療行為により、原告の右眼を失明するに至らせたのであるから、民法七〇九条により原告の受けた後記損害を賠償する責任がある。

5  損害

(一) 逸失利益 金一一三九万九一〇〇円

原告は、右眼失明当時、満五四歳で奈良において不動産賃貸業等を営む会社の経営者であり、昭和五一年度の賃金センサスによると、同年度の男子の五〇歳から五四歳までの年間平均賃金は金三一八万八四〇〇円である。そして、原告は、六四歳に至るまで一〇年間就労が可能であり、この間右金額を下回らない年間所得を得ることができた。そこで、一眼の失明による労働能力喪失率は四五パーセントであるから、ホフマン方式により中間利息を控除して得べかりし利益を計算すると、その現在価額は金一一三九万九一〇〇円(一〇〇円未満切捨)となる。

(二)慰藉料 金九〇四万円

原告は、出生時からほとんど視力のなかつた左眼に加え、視力のあつた右眼をも失なつて両眼失明状態となり、今後盲目の状態で不自由な生活を送らざるを得ないため、筆舌に尽しがたい精神的苦痛を受けた。

(1) 一眼失明の後遺症慰藉料金五〇四万円

(2) 入、通院慰藉料 金一〇〇万円

原告は、被告杉田医師による本件手術のため、左記のとおり不必要な入、通院を余儀なくされたが、同医師は手術の失敗後、客観的には回復の見込がないにもかかわらず回復するごとく述べ、原告は右言葉を信じて、昭和五三年一二月末までの長期間にわたり奈良から通院した。

(イ) 入院期間 昭和五一年一〇月一日から同年一一月九日までの四〇日間

(ロ) 通院期間 昭和五一年一一月一〇日から昭和五三年一二月三一日までのうち四六日間

(3) 信頼違反としての慰藉料金三〇〇万円

被告杉田医師は、本件手術が、前記のとおり極めて危険な手術であるにもかかわらず、患者の人権を無視してなんらの説明をしなかつた。そのため、原告の同被告に対する信頼は著しく裏切られた。これを、あえて金銭で評価すると金三〇〇万円を下らない。

(三) 付添費用 金九六五万七二〇〇円

(四) 交通費 金九二万円

(五) 弁護士費用 金二二五万円

6  結論

よつて、原告は被告らに対し、各自金三三二六万六三〇〇円及びこれに対する訴状送達の日の翌日である昭和五四年六月一四日から完済に至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

二  請求原因に対する認否<省略>

三  被告らの主張

1  糖尿病性網膜症について

(一) 糖尿病性網膜症は、糖尿病の合併症の一つで、糖尿病に特有な血管病である。その病変で最初にみられるのが、黄斑部を主とした後極部の毛細血管瘤であり、次が同じ部位の点状出血である。時に、しみ状、苔状出血もみられる。続いて、眼底後極部に散在性の輪状・馬蹄形等の糖尿病性白斑が認められる。これは、硬く濃密な白色ないし黄白色の境界が鮮明な血管径程度の斑点又はそれが数個融合したようなもので、不正形である。これらの発生と消退がみられながらも、静脈の怒張や口径不同が著明とならず、長年月その程度におおむね留つている予後の良いものを、単純性網膜症と呼んでいる。

これに対し、更に病変が進展し、静脈の怒張、著しい口径不同が目立ち、毛細血管の新生、吻合しての奇網の形成、それらに伴つて結組織の増殖、反復して起こる硝子体及び網膜の出血、結組織と出血塊の瘢痕化、その収縮による網膜剥離という経過をたどり、遂には失明に至るものを増殖性網膜症と呼んでいる。

(二) 糖尿病性網膜症は、糖尿病患者の二五ないし五〇パーセントに認められ、その一〇人に一人は失明するとされる悲惨な病気である。わが国でも糖尿病発病の増加していることに加え、そのコントロール技術が向上して延命効果が高まつてきたため、従来は失明に至らず死亡していた者が、延命により失明という状態となり、その対策の重大性が問題となつている。

2  糖尿病性網膜症の原因とその治療法

(一) 糖尿病性網膜症(以下「本症」という。)の原因はまだ明らかではない。しかし、本症の発生、進行が糖尿病の治療及びその良否によつて影響を受けることはほぼ間違いないとされている。したがつて、本症の治療の基礎は糖尿病の治療あるいはそのコントロールといえる。

しかしながら、ひと度本症が発生すると糖尿病のコントロールをいかに良くしても再発や増悪を完全に防ぐことはできないとされている。しかも、同症が慢性の血管病であり、治療の如何にかかわらず失明の結果を避けがたく、その治療は失明に至る時期を少しでも延長せんとするものにほかならないのである。

(二) 本症に対する治療法としては薬物療法、光凝固、更に最終的段階としての硝子体手術(又は硝子体切除術という。)がある。

薬物療法においては、確実に有効な薬物はまだ発見されておらず、本症が軽症で単純性網膜症の状態にあるときに薬物療法のみで奏効する場合があるにすぎない。

また、光凝固は本症の本態にせまる療法ではないが、臨床上、初期においてアルゴンレーザーやキセノン光を用いて行えば、失明に至る時期を延長させる効果をあげうることがある。しかし、牽引性網膜剥離を伴う増殖性網膜症に対しては光凝固法は概して禁忌といわれている。したがつて、原告の病態に対する治療方法としては硝子体手術が最後の治療方法であつた。

3  硝子体手術の適応性

(一) 本件の場合、原告に対しては既に、奈良医大附属病院において、昭和五一年四月二八日、光凝固療法が実施されていたが、被告病院における原告の初診時(同年九月二〇日)の所見、すなわち、視神経乳頭から黄斑部にかけて線維血管性の膜状物が縦横にあり、それが網膜を牽引し、網膜は中心部で剥離となつていたことに照らすと、このまま放置すれば剥離が全周に拡がつて失明に至るものであり、早急に硝子体手術を実施し、右剥離を除去、軽快させる以外に、失明に至る時期の延長を図ることが不可能であつた。したがつて、剥離を可能なかぎり改善するしか失明に至る時期の延長を図りえなかつたのである。

(二) 黄斑部に発生した網膜剥離を放置すれば、全周剥離となり失明に至るが、かような状態に対して硝子体手術を最後の療法として施し、剥離の除去、軽快を図れば、その失明に至る時期を延長できる可能性があるため、その実施については有効性をもつものといえる。

そして、その侵襲性についてみるに、出血その他の合併症が考えられるが、前記のとおり硝子体手術が最後の選択であるから、血管の増殖が極めて著明な場合を除き、積極的に実施し、視力の改善の可能性を追求すべきものである。

しかし、新生血管増殖が極めて著しい場合は、出血しやすく、そのため失明の危険が極めて大きくなるため、硝子体手術を実施してもその成果が期待できず、かえつて、その侵襲性を考慮すると手術を避けるべきものであるが、本件においては、原告の硝子体混濁も軽度で、血管の著明な増殖は認められず、また網膜剥離は線維血管性膜状物の牽引によつて網膜が引つ張られ剥離したもので、この牽引物を切除すれば剥離がかなり改善される可能性が十分考えられるため、その適応性を認め、その説明をした上で実施したものである。

(三) ところで、ロン・マイケルは、硝子体手術の糖尿病眼内合併症に対する適応として、次のものを掲げている。

(1) 吸収のおそい硝子体出血

(2) 黄斑部を含む新しい牽引網膜剥離

(3) 裂孔の発生した牽引網膜剥離

(4) 進行性血管線維性増殖

(5) 初期のrubeosisを伴つた硝子体出血

このことを、原告の病態に即していえば、右の(2)及び(4)に該当し、硝子体手術の適応と解される。しかも、原告の場合、その病態が極めて進行の速いものであつたことから、血管線維性増殖が更に進むと、ますますやりにくくなり、その成功率も低下するため唯一、最後の治療方法である硝子体手術は、速かに行う必要性と緊急性があつた。

4  説明義務について

(一) 医療行為は病変の進行という大きな危険を回避するため、より低い危険を含む行為でどれだけ改善に挑戦しうるか、という場であるとも考えられる。決して安全な行為でないことはいうまでもないが、医師として放置しておけば最悪の状態に至ることが予見できる場合、最後の選択としての方法があれば、その存在を明示し、危険も摘示しながら患者にその選択を求めることがある。

治療において、まだ初期の段階でかなり複数の選択が可能な場合の説明と、最後の選択であり、かつ、重篤な結果が予見できる場合に行う説明とは本質的に異なるものがある。

本件のように糖尿病性網膜症(殊に増殖性)は、発症すれば治癒する見込みがなく、いずれは失明に至るのである。進行の程度によつて、全身の内科的コントロールは当然のことながら、薬物療法、光凝固法もそれ自体は完全治癒に導かれるものでなく、失明の時期を先にのばすことの目的しかありえない。そして、末期の増殖性病変が悪化すれば、もはや最後の選択として、硝子体手術しか残されていないのである。しかし、硝子体手術は、近年その成功率も徐々に向上しつつあるものの、術中、術後の合併症により悪化する事例の方がまだ高率を占めている現状である。

患者の失明の時期を少しでも先へ延ばすため、その療法の存在を知らしめることが必要であるが、同時に危険性を強調すれば、患者はその手術を受ける選択を行なわず、治療の希望も目的も失われる。

担当医として自ら認識し知識として有する一切の理解を披露説明して、療養方法の指導をするべきであるとする考え方は、あまりにも理念的すぎる。医療における療法指導は、実際問題として医師の客観的で淡々たる一方的説明と、それを聞き終つたあとの患者の結論としての承諾ないしは不承諾、ということで終始するものではない。医療は患者の病める状態を何とか救おうとするものであり、そのために必要な療養方法の内容の指導をするべきものであり、常に治療のためという目的意識の下になされる意思行動である。

(二) 医師の病状の説明、手術の必要性、適応、危険率の説明などは、それらの説明に関連して、患者の質問、さらに付加される説明、それに対する質問、といつた形で発展するのが通常であるが、医師の態度のなかに単なる客観的、かつ、平明な説明に終始すうものが窺われれば、患者は医師に対する信頼を失うことになろうし、また、何とか治療を行おうとする医師の熱意ある説明がなされることも多いであろう。しかし、法的な争いとして登場する場合かかる場面は浮彫りにされず、ただ、悪しき結果に関する説明不足、危険性の強調はなかつた、という説明の単純な存在・不存在の問題に還元されてしまうものである。

本件硝子体手術の実施について、医師が将来生ずるかもしれない紛争を怖れたなら、かえつて成功しなければ失明時期を早める結果になることを、かなりの程度強調することになる。そうすれば、患者は最後の選択を行わず、六〇パーセント前後の合併症のため、三〇ないし四〇パーセントの成功の可能性を否定してしまうことにもなりかねない。

ここに医師の説明における根本的、かつ、本質的な問題がひそんでいる。

(三) 前記のとおり、原告の症状は、既に黄斑部にまで剥離が生ずるなど、早晩、失明することが必至であり、唯一最後の治療法である本件硝子体手術のみが医学的に対処しうるものであり、かつ、この手術の実施により、当時の治療レベルにおいても約三〇ないし四〇パーセントの奏功を得られるものであり、基礎疾患の差異による奏功の有無が考えられるにしても、「危険」対「危険」の場面における説明義務として、医学的見地を理解したうえにたつた法的考慮がなされなければならない。

(四) 本件において、被告杉田医師は原告に対し、術前に次のとおり硝子体手術の説明をしてその承諾を得た。すなわち、

(1) 原告は、「以前から糖尿病が悪く、最近かなり悪くなつて、奈良医大で光凝固を処置してもらつたが、それが効かなくて当院へ来た。何とか治して欲しい。」と、被告杉田医師に依頼したものである。

(2) そこで被告杉田医師は、奈良医大附属病院で施行された光凝固法を踏まえて、原告に対し、「光凝固は、この段階の前までは効くが、この段階に入つてからは、もう光凝固では効かない。剥離を治すには引張つている膜を切る以外に方法はない。しかし、その切るということも非常に危険な状態があるけれども、この手術をしなければ、この眼は早晩、時間の問題で失明する。そういうために、助けなければならない。」と説明し、また、「この病気には、これ以外の方法では絶対治すことができない。ただし、この方法もある程度いろいろな危険を持つている。しかし、これをやらない限りは絶対に治らんから一生懸命やつて治します。」と説明したのである。

すなわち、原告が被告病院を訪れたときには、視神経乳頭から眼の中心部である黄斑部にかけて線維血管性の膜状物が縦横にあり、それが網膜を牽引し、網膜は中心部に剥離状となつていたため、早急に硝子体手術を実施し、右剥離を軽快させる以外に失明時期の到来を遅らせることは不可能だつたのである。

(3) 当時、被告杉田医師は、本件手術がアメリカにおいても非常に難しい手術であつて、成功率が三〇パーセントぐらいであり、あとは失明等に至つていることを知つており、糖尿病性網膜剥離に対する成功率が当時の世界の発表で三〇パーセントであつたことから、原告に対し、絶対治すなどということを言うはずがないし、原告は網膜剥離であるので、ある程度失明するということを告げており、必ず見えるようにするとは言つていない。

このことは、原告自身、すでに自己の病状は血管が脆弱になつていて、自然に血管が損傷し出血してくる病態に陥つており、早晩失明が避けられず、これを治療する唯一最後の治療法として硝子体手術しかないことを十分認識し、被告病院にて最後の治療を受けたいとの意図をもつて、被告杉田医師から右手術療法の説明を受け、その実施を承諾したものであつて、同被告にはなんら医師のなすべき説明に欠けるところはなかつた。

なお、原告は、被告杉田医師が網膜の水をとる手術である旨虚偽の説明をしたと主張しているが、原告の症例は網膜に穴があいている訳でなく、網膜がその前にある膜のために引張られて剥れてきている症例であるから、水を抜く云々ということは考えられず、牽引している膜状物の除去に手術の目的があるから、同被告がそのような説明を行つたことはない。<以下、省略>

理由

一請求原因1の事実は当事者間に争いがない。

二原告の診療及び手術経過

原告が昭和五一年九月二〇日被告病院を訪れ、被告杉田医師から診察の結果糖尿病性網膜症であるとの診断を受けたこと、原告が同月二四日被告病院に入院し、同月三〇日午後七時ころ、同医師から全身麻酔のうえ硝子体手術を受けたこと、同年一〇月六日同病院において、原告の目の包帯がとられたが、視力はなく何も見えなかつたこと、被告杉田医師がその後原告に対する診療を二年余にわたり継続したことは、いずれも当事者間に争いがない。

しかして、右の事実に<証拠>を総合すると、原告の病歴、各診療機関での診療及び手術経過は、次のとおりであつたことが認められる。

1  原告の糖尿病歴と受診状況

(一)  原告は、幼児期から左眼がほとんど視力のない弱視(三〇ないし五五センチメートル手動弁)であつた。

(二)  昭和三八年に黄疸の症状が出たため、尾鷲市の長田内科において検査を受けた際、糖尿病であることを初めて指摘され、その後、原告は上島医師のところで糖尿病の検査を受けた際、同医師から食餌療法等の説明を受けた。

(三)  昭和五〇年一〇月、大阪市にある住友病院において、人間ドックに入り検査を受けた際、担当医師から糖尿病がひどくなつているとの診断を受けたが、眼底検査を受けず、そのまま放置していた。

(四)  その後、昭和五〇年一一月初めころ、原告は自動車運転中、右眼の視力に不安を感じたが、昼間は特に不自由を感じなかつたので放置しておいたところ、昭和五一年二月一二、三日ころ朝、自動車の運転中眼がかすむようになつた。そこで翌日、奈良市内の石崎眼科において同医師の診察を受けたところ、多量の眼底出血があり糖尿病性網膜症であるとの診断を受け、右眼の視力は0.9であつた。原告は同医師から入院治療を勧められ、奈良医大附属病院奈良分院の紹介を受けたので、翌日右分院で受診したところ、同じく糖尿病性網膜症の診断を受けたが、病室がなかつたので、投薬を受けただけで入院しなかつた。

(五)  同三月初旬ころ、原告は知人の紹介で奈良医大附属病院第一内科で受診し、糖尿病治療のため入院した。

2  奈良医大附属病院眼科での診療経過

(一)  同年三月一九日、同病院第一内科西村医師から同病院の眼科に対し、眼底出血、白斑のある糖尿病性網膜症の患者であるので共観で治療して頂きたいとの依頼があり、同日眼科の松田医師が原告を検査のうえ診察した。その結果、右眼の視力(矯正不能)は0.8、眼底検査の結果は、スコットの分類で糖尿病性網膜症第三期bで、出血斑と出血斑痕としての白斑が認められ、左眼の眼底については出血はなく、視神経委縮が認められた。また動脈硬化の程度も三度であつた。そこで松田医師は原告に対し、糖尿病性網膜症の病態、予後、糖尿病のコントロールなどについて説明を行つた。

(二)  同年四月上旬ころ、松田医師は原告に対し螢光眼底撮影を行つたところ、視神経乳頭部、黄斑部周辺に漏出が多数認められた。そこで同医師は、光凝固療法により出血を止める必要があると判断した。

(三)  同年四月二一日、原告は眼科に入院したが、眼底所見では、従来の出血、白斑に加えて黄斑部の浮腫が認められた。松田医師は同月二八日原告に対し、漏出部の血管壁を焼いて出血を止め、更に新生血管の増殖を防止し、網膜剥離の進行を阻止するため光凝固療法を行つた。その際、原告の糖尿病性網膜症の病態は増殖期にあり、同医師はキセノン光凝固装置を用い、0.1秒4.5度二回、0.2秒4.5度二回、6.0度二回という方法で光凝固を行つた。

(四)  同年五月七日における原告の右眼の視力(矯正不能)は0.6、眼底所見は、光凝固施行後も新生血管が認められた。同医師は再度光凝固を行うことを考え中尾教授に相談したところ、同教授は、光凝固をせず経過観察を行つた方がよい旨答えた。

(五)  同年五月一二日における原告の右眼の視力(矯正不能)は0.5、眼底所見として新生血管、黄斑部浮腫、光凝固斑、出血が認められ、しかも軽度の硝子体混濁も認められた。

(六)  同年五月二四日、原告は同病院眼科を、同月二八日には内科を退院した。退院に際し、松田医師は原告に対し、六月一日に来院することを指示し、全身的管理をするよう療養上の注意を与えた。ところが原告は、二週間分の投薬を受けただけで、退院後同病院へは行かなかつた。

(七)  同年九月初めころ、原告は急激に眼が悪くなり松田医師宅に電話連絡して受診の約束をした。そこで、同月九日同病院を訪れ、同医師の診察を受けたところ、右眼の視力は0.1、矯正視力は0.2で、眼圧は正常であつたが、眼底所見は黄斑部浮腫、増殖物による網膜へのかなりの牽引がみられ、網膜下出血も認められた。そこで同医師は原告に対し、全身的管理を続けるよう注意した。

(八)  同月一三日、原告は同病院を再来し、診察を受けた結果、右眼の視力は二センチメートルの手動弁で、矯正して二〇セソチメートルの指数弁であつた。眼圧は異常がなく、眼底所見は急激に悪化して、硝子体牽引による網膜剥離が発生しており、増殖期の第三期ないし第四期に進行していた。そこで同医師は原告に対し、全身管理をし、安静にしているように注意したうえ、二週間分の薬を投与して、九月二〇日に来院するよう指示した。

3  被告病院での診療及び手術経過

(一)  原告は、実弟に当る宮本昭生の紹介を受けて同年九月二〇日被告病院を訪れ、副院長杉田雄一郎の診察を受けたところ、右眼の視力は0.06であつた。

(二)  翌二一日、被告杉田医師が原告を診察したところ、眼底所見は視神経乳頭から黄斑部にかけて線維血管性の膜が一面に張りめぐらされ黄斑部が引張られて網膜剥離が生じており、右眼の糖尿病性網膜症は増殖性網膜症に進行していたので、入院を指示した。

(三)  同月二四日、原告は被告病院に入院し、翌日の検査では右眼の視力は0.08であつた。

同月三〇日、原告は被告杉田医師により硝子体手術を受けたが、その際、同医師は原告に対し、「糖尿病性網膜症は絶対に治らない。長く生きておれば必らず失明するから、あなたが生きている間に失明しないように一生懸命やつて治します。」「この手術は失明しないようにするためにやるもので心配はない。私にまかせておきなさい。」などと説得したうえ原告の口頭による承諾を得たが、手術の内容、その危険性の程度、手術をしない場合の予後等については、十分に説明しなかつた。

(四)  被告杉田医師は、まず出血を防ぐためジアテルミー凝固を行い、前処置をして硝子体手術にとりかかつた。一時原告の血圧が下がつたので約三〇分中断したが、その後回復したため手術を続行し、顕微鏡下で網膜を引張つている膜をはがして取る操作をくり返した。その過程において、網膜からかなり出血する合併症が生じたため、手術を中止するに至つた。

(五)  同年一〇月六日、原告は目の包帯をとられたが視力がなく、回復しないまま同年一一月九日に退院した。

被告杉田医師は、出血が止まれば、網膜を引張つている膜を切り取つてあるので治癒の見込があるとして、原告に止血済、消毒剤を投与し、退院後も通院するよう指示し、出血が止まれば治るから心配しないように告げて、同五三年一二月まで二年余にわたり経過観察の下に治療を続けたが、遂に原告の右眼の視力は回復しなかつた。

以上の事実が認められる。

原告は、被告杉田医師が、本件手術は網膜にたまつた水をとるための手術であると虚偽の説明をしたうえ承諾を得た旨主張し、原告本人は右主張に沿う供述をしているが、右供述部分は前記認定事実に照らしてにわかに信用することができないし、他に右の事実を認めるに足る証拠はない。また、被告らは、被告杉田医師が本件手術の内容、危険性等について十分な説明をした旨主張し、被告杉田本人は右主張に沿うかのごとき供述をしているが、右供述部分もまた前記認定の事実に照らしてにわかに信用することができず、他に右の事実を認めるに足る証拠はない。

なお、昭和五一年九月二五日における原告の右眼視力は、乙第三号証の二(診療録)には0.06と記載されているが、証拠保全により収集された診療録(甲第一号証)には0.08と記載されているので、乙第三号証の二の記載は後日改ざんされたものと窺われる。

三糖尿病性網膜症とその治療方法

<証拠>を総合すると、次の事実が認められる。

1  糖尿病性網膜症について

(一)  糖尿病性網膜症の発生病理については、なお不明な点が多いが、糖尿病の血管合併症の一つで、糖尿病性網膜細小血管症の一型である。同症の特徴的所見としては、毛細血管の透過性亢進、閉塞、毛細血管瘤の形成が認められ、毛細血管床を病変の場とし、毛細血管自体の病変と血液性状の異状とを基礎として進展して行くものと考えられている。

(二)  糖尿病性網膜症を単純性網膜症と増殖性網膜症とに分類することが広く承認されている。単純性網膜症とは、概して進行が遅く、数年間の間隔の比較で進行が明らかに認められるような性格のものであり、増殖性網膜症とは、血管新生及びこれに伴う結合織の増殖が加わつた病型であり、概して進行が速く、出血をくり返して増悪して行く性格のものである。

また、この増殖性網膜症を可能な限り早期に的確に診断するために単純性網膜症から増殖性網膜症への移行型として前増殖性網膜症という概念が導入された。この特徴的所見として①静脈の異常②棉花状白斑③網膜内細小血管異常の三つがあげられる。

更に、単純性網膜症の性格をもちながら、黄斑部の病変が強いため、中心視力の低下が著明な病型が糖尿病性黄斑症として区別される。この黄斑部の病変の主体をなすものは、黄斑部類のう胞浮腫と黄斑部沈着物である。

(三)  原告が、昭和五一年九月二〇日被告病院を訪れたときの右眼の病態は、糖尿病性網膜症の右の分類のうち増殖性網膜症であり、黄斑部を含む牽引性網膜剥離を伴うものであつた。

2  治療法

(一)  糖尿病性網膜症に対する治療としては、確実な永続した全身的コントロールが不可欠であるが、単純性網膜症に対しては血管強化剤を中心とした治療が行われる。

糖尿病性黄斑症は、黄斑部類のう胞浮腫と黄斑部沈着物とを主とする病変であり、これに対しては光凝固療法が必要となる。しかし、両者とも発生後日時の経過の長いものに対しては、光凝固療法を行つても視力の回復を図ることは非常に困難になるので早期発見が重要である。

(二)  前増殖性網膜症に対しては、前記薬物療法に加えて光凝固療法が必要となる。

(三)  増殖性網膜症に対しては、光凝固療法と硝子体手術とがあり、光凝固療法は、乳頭新生血管や狭い範囲に発生している新生血管に対しては効果をみることもあるが、牽引性網膜剥離が発生した病態のものに対しては概して禁忌である。

以上の事実が認められる。

そこで、原告の病態に対する硝子体手術の適応について考察する。前記認定の事実によれば、原告が被告病院を初めて訪れたときの右眼の病態は、増殖性網膜症で、視神経乳頭から黄斑部にかけて線維血管性の膜が一面に張りめぐらされており、黄斑部を含む牽引性網膜剥離を生じていたものである。しかして、鑑定人松井瑞夫の意見書(乙第一七号証)によれば、ロン・マイケルが掲げる硝子体手術の糖尿病眼内合併症に対する適応として、①吸収の遅い硝子体出血②黄斑部を含む新しい牽引網膜剥離③裂孔の発生した牽引網膜剥離④進行性血管線維性増殖⑤初期のrubeosisを伴つた硝子体出血の五項目が挙げられ、原告の病態はそのうちの②と④に該当することが認められるから、硝子体手術の適応と解するのが相当である。

四硝子体手術とその危険性

1  請求原因3の硝子体手術の危険性に関する事実は、被告杉田医師の硝子体手術の成績の基準を除いて当事者間に争いがない。

2  右事実に、<証拠>を総合すると、次の事実が認められる。

(一)  硝子体手術は、一九六八年にマイアミ大学バスコン・パルマー眼研究所のデイヴイッド・ケイサーが、原発性アミロイドーシスの混濁硝子体を、open sky vitrectomyによつて切除し、視力の回復に成功して以来大いに進展し、とりわけ一九七〇年に同研究所のロバート・マカマがビスク(VISC)を開発し、経毛様体偏平部硝子体切除術の技法を確立し、今日の硝子体手術の発展に大きく貢献している。

(二)  硝子体手術とは、硝子体切除刀で先ず透明硝子を切除し、線維血管膜を剥離、切除し網膜に対する牽引を除去し、網膜の復位を図ることを目的とする手術方法である。

(三)  右手術が増殖的網膜症を対象とするときは、新生血管からの出血、増殖物の剥離を行う際に発生する網膜裂孔形成、網膜剥離等の術中合併症を発生させる可能性がある。出血に対する処置として、眼内ジアルテルミーによる血管凝固や准流液の流量を一時的に増加させて眼内圧を高めて止血を図り、更に出血が続けば眼内を空気でみたして止血を図るなどの方法が行われているが、本件手術当時は一般に眼内ジアテルミーによる血管凝固が行われだしたところである。

(四)  また、増殖物の剥離、切除も、最近ではMPCと呼ばれる自動式硝子体剪刀が開発され使用可能となつており、これらの装置により膜を細かく切り、剥離できる部位には膜を残して、裂孔の形成を防ぐという方法が行われているが、本件手術当時は曲げた針とビスクの先端とを両手で使つて剥離、切除を行つていたが、高度の技術を要していた。

(五)  被告杉田医師は、昭和四七年から同五四年の間、毎年欧米の有名大学へ行つて最先端の知識を吸収し、アメリカでマカマ教授の指導を受けて帰国し、最新の医療器械設備を設置して昭和四九年にはいち早く硝子体手術を開始し、本件のような末期糖尿病性網膜症の手術は三九例目であつた。同症の手術結果については、昭和五一年までの症例のうち改良及び著しく改良したもの(ただし、その基準は必ずしも明確でない。)は二〇例に達している。同医師が発表した論文(甲第二号証)では、昭和四九年ないし同五三年の同症硝子体手術八七例中良好は三八例(31.6パーセント)で、手術による成績はあまり良好とはいえない旨記述されている。

(六)  本件当時、わが国における同症の硝子体手術の成功率は、各研究報告により一様ではないが、三〇パーセント程度であり、日大医学部松井瑞夫教授らの研究報告(乙第二一号証)によると、昭和五六年三月末までに行つた重症糖尿病性網膜症に対する硝子体手術の成績は、網膜剥離と網膜前増殖物があれば三〇ないし四〇パーセント、更にこれに硝子体混濁が加われば三〇パーセントであり、出血等術中、術後の合併症発生の可能性がある旨報告されている。

以上の事実が認められる。

五本件手術を受けなかつた場合における原告の病態の予後

前記認定の事実に、<証拠>を総合すると、原告の右眼の糖尿病性網膜症はその進行が非常に速やかであること、牽引性網膜剥離が自然に治癒するということは考えられないこと、糖尿病性網膜症は個々の症例によりその視力の予後はかなり異なることが認められる。

右認定の事実関係からすると、原告の右眼の視力が自然に回復する可能性は認めがたく、そのまま放置すれば視力低下が続き、近い将来に必ず失明するとまではいえないが、やがては失明に至る可能性が大きいことが推認できる。

六被告らの責任

1  被告杉田医師の過失(説明義務違反)

(一)  医師は患者の生命及び身体の健康の管理を目的とする医療行為を行う立場にあり、右医療行為を的確に行うには、患者は医師に対し正確な症状を伝え、医師は患者に対し診断、療養等につき説明指導することが必要となる。

とりわけ、医師が患者に対し、手術等の医的侵襲を加え、そのため生命身体等に重大な結果を招く危険性の高い場合には、その重大な結果を甘受しなければならない患者自身に手術を受けるか否かについて最後の選択をさせるべきであるから、医師は説明義務の免除される特別の事情のないかぎり、その手術の目的、内容、危険性の程度、手術を受けない場合の予後等について十分な説明を行い、その上で手術の承諾を得る義務があるものというべきである。もつとも、具体的事案において、医師が患者らに対し、どの程度の説明をすれば説明義務を履行したことになるかについては、きわめて困難な問題がある。

(二)  これを本件についてみるに、前記認定のとおり、本件当時、原告のような末期(重症)糖尿病性網膜症に対する硝子体手術は、成功率が約三〇パーセントという低い成績で、高度の技術を要し、手術が成功しても視力の回復が得られないこともあり、かつ、術中、術後の合併症の発生する可能性がある危険な手術であつたことが窺われる。そこで、右のような医師の一般的責務と原告の左眼が幼児期からほとんど視力のない弱視であり、右眼が唯一の頼りであつたことを併せ考えると、少なくとも、被告杉田医師は原告に対し、本件手術の目的、内容、危険性の程度(成功の見通し、視力回復の見通し)、手術を受けなかつた場合の原告の病態の予後等について十分な説明を行つたうえ手術の承諾を得る義務があつたものといわなければならない。

(三)  しかるに、前記のとおり被告杉田医師は、手術の内容について、「この手術は失明しないようにするためにやるもので心配はない。私にまかせておきなさい。」との趣旨の説明をしただけで、手術内容について具体的な説明をせず、また手術を受けなかつた場合の予後についても「糖尿病性網膜症は絶対に治らない。長く生きていれば必ず失明するから、あなたが生きている間に失明しないように治療する。」と述べただけで、適切な説明をせず、本件手術の危険性の程度に関しては一切説明をしないで、原告の承諾を得たことが認められる。してみると、被告杉田医師が説明義務を免かれる特別の事情の認められない本件においては、同医師が右説明義務を十分に履行しなかつたことにつき過失があるものといわねばならない。

なお、被告らは本件手術が原告の病態に対し、唯一最後の治療方法で、速やかに行う必要性と緊急性があつた旨強調するが、唯一最後の治療方法であるからといつて右説明義務が軽減ないし免除される理由とはなり得ないし、患者の同意が不要とされる緊急事態を認めるに足る証拠はない。

2 被告同潤会の債務不履行責任

被告同潤会は、昭和五一年九月二〇日原告との間において、善良なる管理者の注意義務をもつて、原告の右眼疾患の治療にあたることを内容とする準委任契約を締結したこと、被告杉田医師は、被告同潤会の経営する被告病院の院長として医療行為に従事しているものであることは、いずれも当事者間に争いがない。したがつて、前記のとおり被告同潤会は、被告杉田医師の説明義務違反により不完全な履行をなしたものであるから、原告の被つた損害を賠償する責任がある。

3 被告杉田医師の不法行為責任

被告杉田医師は、前記のとおり過失ある診療行為をしたのであるから、原告の受けた損害を賠償する責任がある。

七損害

1  原告の損害と被告らの賠償責任の範囲

(一)  原告は、右のような被告杉田医師の説明義務違反を内容とする過失により右眼失明に至つたものであるとして、右眼失明についての逸失利益、慰藉料等を請求している。

仮に、被告杉田医師が右のとおり手術内容及びその危険性等について説明義務を尽くしていたならば、原告が手術を拒否し、右眼失明を阻止し得た蓋然性を全く否定することはできない。しかし、前記認定のとおり、原告は、本件手術時に至るまで医師の注意した全身管理を怠り、糖尿病性網膜症に罹患悪化させる結果となつたこと、また本件硝子体手術の成功率は三〇パーセント程度で決して高いものではないが、原告の病態にとつては残された唯一の治療法であり、手術を受けなかつた場合の予後については失明に至る可能性が大であつたこと等を併せ考えると、被告杉田医師が前記説明義務を尽くしたなら、原告が本件手術を拒否して現状の視力を維持し右眼失明を免れ得たかどうかについては必ずしも明らかでない。

(二)  してみると、被告杉田医師の前記説明義務違反の過失と原告の右眼失明による損害との間に相当因果関係があるものとは認められない(原告は、本件において、同医師の手術の選択、手術施行上の過誤を主張するものではない)。したがつて、原告の失明による逸失利益及びその他財産上の損害等に関する請求部分は理由がない。

2  慰藉料

前記のとおり、本件手術はその危険性が大きく、失明する可能性もあつたのであるから、原告としては、医師からその手術内容、成功の見通し、手術しない場合の予後等について十分な説明を受けたうえ、その手術を受けるか否かの最終決定権を有している。にもかかわらず、被告杉田医師から右の点につきほとんど詳しい説明を受けず、本件手術を受けることにより視力が回復するものと過大な期待をしていたところ、手術中の眼内出血の結果、不幸にも失明に至つたことにより、測り知れない精神的苦痛を被つた。またそれだけでなく、原告は幼児期から左眼がほとんど視力のない弱視で、右眼を唯一の頼りに生活してきたものであり、本件事故により、ほとんど両眼失明の状態となり、退院後も約二年余の長期間にわたり奈良から被告病院へ通院したが改善せず、以後の日常生活はもとより、会社の経営その他社会生活に重大な制約を余儀なくされ、第三者の介助なくしては生活できない状態となり、その精神的苦痛はまことに測り知れないものがある。これらの点に、本件手術が原告の病態にとつて残された唯一の治療法であり、手術を受けなければいずれ失明に至る可能性の大きかつたこと、その他原告の病歴等一切の事情を斟酌すると、被告らが原告に対し賠償すべき慰藉料額は金三〇〇万円をもつて相当と認める。

3  弁護士費用

本件訴訟の内容、経過及び認容額その他諸般の事情を考慮すると、本件と相当因果関係のある損害として金三〇万円を認めるのが相当である。

八結論

以上の次第で、原告の請求は、被告らに対し、各自金三三〇万円及びこれに対する訴状送達の日の翌日であることが記録上明らかである昭和五四年六月一四日から完済に至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるからこれを認容し、その余の請求は失当として棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九二条、九三条を、仮執行の宣言につき同法一九六条をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。

(土田勇 寺本嘉弘 酒井正史)

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